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窪西君,ISM研究会の皆さん,今井です。
レポート,どうもありがとうございます。ちょっと現在,猛烈に忙しいか
ら,取り敢えず,お礼と簡単なコメントを。
>徐京植氏(作家):彼は詩の朗読ばかりしてました。
作家なのだから当然です。
>高橋哲哉氏(東大教授、「ショアー」の上映運動などしている):この問題は
>結局憲法第1条の問題であり、戦後50年で改憲できなかったことが日本の民主主
>義の未成熟を表わしている。
全くその通りだと思います。改憲論議を避けてきたのは,特に護憲派の致命
的な弱さだと思います。因みに俺は改憲派。
>中西新太郎氏(サブカルチャー評論家):
〔中略〕
>日本の若者はフリーターなど市民社会からドロップアウトし疎外されていて、政
>治に絶望している。
そうか! やっぱりおいら,市民社会からドロップアウトしていたのか!!
>岡本有佳氏(生活クラブ生協):本の共同購入の話。
生協なのだから当然です。
>日本は福
>祉国家だからアメリカよりマシだとか言ってました。
アメリカは絶望的なくらいに愚劣な“福祉国家”だと思います。福祉国家と
いう場合に,国家による福祉政策だけを考えていては,いかんのでは? 民間
福祉も立派な福祉国家の一分肢です。逆に,“民間福祉は国家からフリーハン
ドだから素晴らしい”なんてのは新自由主義の幻想だと思います。
どうも一般にはビスマルク的イメージが強すぎるようですが,福祉国家は優
れて20世紀中庸以降の資本の国家の実存様式であり,新自由主義政策が行われ
ようと企業従業員であるということが保険取得の条件であろうと,いまだに死
滅していないと思います。と言うか,結局のところ,資本はこれを止揚するこ
とはできないのでは? 新自由主義は,確かに福祉国家の限界暴露ではありま
すが,しかし“先祖返り”(伊藤誠)では決してありません。“先祖返り”な
んて風に考えてしまうと,新自由主義の肯定的・必然的な側面も見逃してしま
うと思います。
>「日本で民主主義が死ぬ日」という集会の
>タイトルがおかしいという意見が相次ぎました。
そりゃ,まぁ,おかしいでしょう。
>高橋哲哉氏:国民国家の民主主義は特権者の民主主義にすぎない。日本国憲法
>の「国民」規定は2通りあって、英訳ではpeopleとなっているところもある。民
>主主義とは国家の枠をこえたラディカルなものだ。
これは重大な問題だと思います。別に英語の原文[*1]はどうでもいいのです
が,「国民主権」の「国民」はpeopleだったと記憶しています。これは日本国
憲法の話ではありませんが,“国籍”と言う時にも,英語の場合には,
nationalityとcitizenshipとがあって,どちらを使うかで内容ががらっと変わ
ってきます。言葉そのものはどうでもいいのですが,言葉が指す内容に,資本
の文明化の分裂が現れています。
[*1]ちょっと,ほんの些細なケアレスミスの指摘。日本
国憲法について言うと,英訳じゃなくて,英語の原文の
和訳ですよね。
>聴衆の出版関係者:「民主主義」は統治の方法としてもっぱら理解されている
>が、運動の過程としての民主主義もあるはずだ。
「統治」が「運動」ではないというのがよく解りません。ひょっとすると,
よくある類の「運動」と「体制」とを区別するブルジョア的な態度[*1]をこの
方はとっていらっしゃったのでしょうか? 体制を再生産するのは他ならない
運動であり,体制が形骸化しているとしたら,それは運動そのものが形骸化し
ているわけです。
[*1]日本共産党は,西側での“社会主義運動”と東側で
の“社会主義体制”とを区別するために,一時期,盛ん
にこのような区別を行って“これが科学的社会主義の成
果だ”とふざけたことをのたまわっていた。
あるいはまた,ひょっとすると,この場合の「運動」とは要するに“反体制
運動”のことを指しているのでしょうか。もしこの方がブルジョア社会の内部
で「統治」を含まない反体制「運動」があり得るなんてことを考えているので
あれば,これはまたこれでナンセンスな幻想です。が,サヨクの人たちの間に
は結構多い。ブルジョア社会の内部では,反体制「運動」は必ず「統治」の問
題を含むということを正直に認めた上で,寧ろ積極的に統治のあり方を問題に
するべきだと思います。
窪西君のレポートを読む限りでは,高橋哲哉さんの発言が一番マシであるよ
うに思われました。