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 ISM研究会の皆さん,今井です。えーと,窪西君が宣伝していた立教の研究
集会(報告者=乾彰夫)についてです。

 (i)そもそも俺は教育学なんてものはよく知らない;(ii)俺は報告者の本を
読んだことがない;(iii)報告そのものもかなり漠然としている──という理
由によって,今一つ報告者の主張を把握することができませんでした。いまレ
ジュメを読み返しても,何を言っているのか,何が言いたいのかよく解りませ
ん。

 取り敢えず,出席することができなかった方のために,報告要旨を書いてみ
ます。なにせきちんと理解することができなかったもので,間違いなどあった
ら,訂正をお願いします(>>出席者の皆さん)。亀甲括弧“〔〕”で囲まれた
部分は今井による補足です。

1. フリーター現象は何を意味しているのか

 (1)高度成長期日本の子供→大人モデル:高度成長期には,新規学卒就職が
社会的・一般的に妥当していた。従って,自立までの過程は短期(学歴に応じ
て卒業時点で直ちに否応なしに大人になる;22歳を過ぎても子供でいることは
できない)であり,単純(同じ学歴であれば,誰もがほぼ同じ年齢で大人にな
る;自分だけ子供でいることはできない)であった。このように,子供とは就
学中の者のことであり,大人とは就業中の者のことであった。

 (1-A)労働市場モデル:中卒・高卒・大卒に応じて階層化された労働市場に
おいて,学生は一括して卒業と同時に(4月1日付で)会社に就社する。ひとた
び就社すると,そのまま社畜として終身雇用される。年功賃金体系の下では,
若年労働者の賃金は必然的に高年労働者のそれよりも低いから,構造的に(景
気のよしあしに関わりなく),若年労働者の雇用は完全雇用になる。

 (1-B)教育モデル:教育理念はいい大学(特殊的専攻は何でもいい),すな
わちいい会社(特殊的職種は何でもいい)を目指すことだけに焦点が当てられ
た一元的・抽象的な能力主義であった。しかも,大学定員は大学進学希望者よ
りも圧倒的に少なかったから,大学は誰にでも入れるものではなく,大学を目
指しての徹底的な競争教育が行われた。

 (1-C)青年期(子供から大人への移行期)モデル:誰もが学生の間は子供で
あり,正社員になると突如としていきなり大人として承認される。従って,上
記の労働市場の下では,同学歴の者については,誰もがほぼ同じ年齢で大人と
して承認される。大人になるのと同時に,家族から経済的にも自立化する(家
から出る)。もちろん,或る一定の年齢になるのと同時に,子供が既存の社会
意識によって大人として承認され,経済的に自立化するとは言っても,精神
的・人格的に自立化するわけではない。従って,本当に大人になるまでの間
は,青年労働者は就社した企業によって保護・管理される。

 (2)今日の子供→大人モデル:“学生は勉学に専念し,学校を卒業したら社
会人”という単一モデルは崩壊し,“学生はアルバイトに専念し,卒業したら
やっぱりフリーター”というモデルも増えてきた。自立までの過程は長期化・
複雑化している。

 (2-A)労働市場モデル:一言で言って,雇用が流動化している。具体的に
は,雇用全体については雇用のパート化・アルバイト化が進んでおり,正社員
雇用については中途採用が増えている。

 (2-B)教育モデル:少子化によって,時代は既に大学全入時代に突入しつつ
ある。もはや大学は誰でも入れるものであるから,既に競争教育は部分的に崩
壊している(もちろん,大学間較差は残るが)。“いい会社”に入るために
“いい大学”を目指す一元的能力主義に代わって,“自分に合う職種”に付く
ために“自分に合う専攻”を目指すような教育──職業教育──が必要になっ
てきている。

 (2-C)青年期モデル:現在は過渡期であって,旧来の労働市場──従って学
校教育──の枠組みが破壊されたのにも拘わらず,まだ新しい労働市場に対応
し得る新しい学校教育の枠組みはできていない。そこで,“自分探し”(アイ
デンティティ形成)の期間──自立までの過程,大人になる過程──が長期
化・複雑化している(これは先進国共通の特徴である)。かと言って,自分を
探し終えるまで寄生する先が企業にも福祉国家にもないから,青年は家に寄生
するしかない(パラサイトシングル)。

2. 戦後教育学のどこが間違いだったのか

 これまでの教育学の欠点は,一言で言って,抽象的なお題目(抽象的普遍)
を唱えてきたという点にある。

 結局のところ,社会から切り離された抽象的自我なんてものはない。だか
ら,“自分探し”(アイデンティティ形成)は,抽象的普遍ではなく,具体的
個別である〔従ってまた,具体的普遍ではない〕。つまり,その個別的生徒が
運命的に(自分の意志に基づいてではなく)住んでいる“そこ”(=個別的な
地理的空間・社会的関係)のコミュニティと,その生徒が運命的に(安定的な
将来設計において後戻りすることができないレールとして)目指している“そ
の”職業(=個別的な具体的労働)とに即して,アイデンティティ形成が行わ
れるべきである。要するに,特定の地域コミュニティに貢献し,特定の職業に
特化する大人になるということがアイデンティティ形成そのものである。

 “全面的に発達した個人”もまた抽象的普遍であって,否定されるべきであ
る。教育にとって必要であるのは,特定の職業技能を身に付け,特定の職業意
識を持った大人の養成である。〔一面的な発達──職業とコミュニティとに特
化するということ──によってこそ学生は自我(またはアイデンティティ)を
獲得し得るのだから,全面的な発達などという抽象的原理を教育に取り入れる
のは学生を自我喪失(またはアイデンティティ喪失)に陥れることになる。こ
れこそは戦後民主教育が犯した罪であった〕。