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ISM研究会の皆さん,考える胃袋こと今井です。今回取り挙げるのは札幌ラ
ーメンのお店(名前は失念)です。
私は昨年度,海外視察のために北海道に渡航しました。以前に北海道の思い
出を何人かの方にはメールで送ったので,既にこの間の経緯をご存じの人もい
るでしょう。
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札幌という街には名物が三つある。──風俗,サラ金,そして札幌ラーメン
だ。皆さんは本場の札幌ラーメンを食べたことがあるだろうか。その魅力に取
り憑かれたら最後,あなたを魅了して離さないであろう。
北海道教育大学の宮田さんの行きつけの店で,われわれはしこたま飲んだ。
店内は酸素が少ないのに,料理はすっかり酸化しているシュールでキッチュな
店であった。──ここまでは,事情をご存じの方も多いだろう。だがススキ野
の夜は,これで終わりではなかったのだ。
私はもう,酸素をたっぷりと吸い込んだ色とりどりの料理を見るだけですっ
かり満足してしまい,結局,この店では何も食べなかった。だが酒を飲んだ後
で空きっ腹だと,何か食べたくなるのが人情である。
そんな時に北海道大学の唐渡さんが“観光客は行かない,地元のヤツしか知
らないラーメン屋があるんだ。札幌で一番うまいラーメン屋だ。そこに行かな
いか”と言ってくれた。渡りに船とはこのことだ。私はかの有名な札幌ラーメ
ンを食べるのは初めてだったから,期待に胸が膨らんだ。
こうして,唐渡さんが,私,浅川さん,小西さん,前畑(憲子)さん,今野
さん(立教の研究生)を引き連れて路地裏のラーメン屋に連れて行ってくれ
た。なるほど穴場的な店だ。他に形容のしようがない。
われわれは,四本の足の内の一つが常に空中に浮いている,遊び心一杯の椅
子に腰掛けた。みんなは味噌ラーメンを注文したが,私は味噌ラーメンという
ものが特に好きで好きで堪らないわけでは必ずしもないので,醤油ラーメンを
頼んだ。
出てきたラーメンを見て驚いた。漆黒のつゆのなかにぶっとい麺が泳いでい
る。──“一体この物体は何なんだ”。興奮のあまり私の鼓動は高まり,宇津
救命丸をアペリティフに飲もうと思ったほどだ。私は恐る恐るラーメンを口に
した。
これはもう“贅沢”の一言だった。甘いでもなく塩っぱいでもなく辛いでも
なく,舌のあらゆる細胞を魅了するたっぷりの醤油。惜しげもなくふんだんに
使われたカン水。尽きることなく味覚を刺激する味の素。──そんな高級食材
の数々に埋もれて,至福の一時を味わった。
私はこんな贅沢な経験をしたことがなかったので,ただもうそれだけで圧倒
されてしまい,正直に言うと,微妙な味はよく判らなかった。だがそもそも料
理を楽しむのに,細かな味の違いなどは判らなくてもよいのだ。そんなことは
俗物のやることだ。総てをありのままに受け容れよう。この店では客は,思う
存分,ゴージャスな気分を堪能すればいいのである。
確かに,一見すると,この麺にはカン水の味しかしない。だが,それが一体
なんだと言うのか。例えば,旬の上海蟹はそれだけで主役なのである。最高の
素材の前では,他の一切のスパイスは恐れをなして消え失せてしまう。他のあ
りとあらゆる調味料は控え目な脇役に撤すればいいのだ。料理とはそういうも
のである。店主が中国奥地から航空便で直輸入してきた最高級の──正に今が
旬の──カン水を前にして,あまり手をかけ過ぎずに素材の持ち味を最大限に
引き出そうとしたのは,誠に正しい判断だったと言えるだろう。
つゆを飲むことは,勿体なくて,私にはとてもできなかった。大豆の臭みを
完璧に消し去った高級醤油の香りが,湯気とともにそこはかとなく漂ってい
る。上等な化学薬品を思わせるこの上品な香りこそは,人類の叡智と進歩の証
なのである。つゆを全部,飲んでしまっては,せっかくのこの芳醇な香りが無
くなってしまうではないか。それに,漆黒の色があまりにも美しく,ただもう
見ているだけで,熱いものが胸に込み上げてきて,口から溢れ出てしまいそう
になっていたのだ。“飲むのが惜しい”とは,まさにこのことを言うのであろ
う。
ホテルに戻って寝たところ,夜中にベッドの中で,このラーメンとの切ない
一時を思い出して,胸が恋い焦がれたのは言うまでもない。私のこの狂おしい
気持ちを少しでも押さえるには,サクロンという名の精神安定剤が必要だった
ほどだ。
札幌は風営法も迷惑防止条例も通用しない,ウェスタンな街である。そんな
街だからこそこういうワイルドな味が生まれたのだと思うのは,私だけではあ
るまい。皆さんに心からお奨めする。──食べてから死ぬか,食べながら死ぬ
か,札幌ラーメン。